Claude Code に仕事を渡したとき、最初は「楽になった」と思いました。でもある日、ふと「楽になったのはいいとして、この仕事をやり遂げたのは自分なのか?」という問いが浮かびました。
これは大げさな哲学の話ではなくて、働いている人間なら一度は考えそうな、素朴な疑問です。
「やりがい」はどこにあったのか、そもそも
仕事のやりがいって、いったいどこから来るのでしょう。自分の場合を振り返ると、「難しいことを乗り越えたとき」「自分が考えたことが形になったとき」「誰かに感謝されたとき」、この三つが大きかった気がします。
Claude Code に仕事を渡すと、このうちの一つ目と二つ目が、少し変わります。「難しいことを乗り越える」というより「難しいことを Claude Code に渡す」になる。「自分が考えたことが形になる」というより「自分が依頼したことが形になる」になる。
これは、喪失なのでしょうか。それとも進化なのでしょうか。
編集者という仕事のことを考えた
出版社の編集者という仕事があります。本を「書く」のは著者であって、編集者ではありません。でも編集者は、著者の考えを引き出し、構成を整え、読者に届く形にする。そこに間違いなくやりがいがあって、「自分が書いていない」という事実は、やりがいの問題にはならない。
Claude Code を使った仕事って、これに近いかもしれないと思いました。自分が直接手を動かすのではなく、方向性を決めて、依頼して、出てきたものを判断して、修正して、届ける。
そのプロセスの中に、確かに「自分」はいます。
でも、「自分がやった感」は正直薄くなる
きれいごとも言えません。Claude Code を使った仕事は、「自分でやりきった感」が薄れるのは本当です。
メールを自分で必死に書いて送ったときの達成感と、Claude Code に書いてもらったメールを送ったときの達成感は、同じではない。少なくとも私にとっては。
これは、自動車で目的地に着いたとき「歩いて辿り着いた達成感」とは違う感覚に似ているかもしれません。目的地には着く。でも何かが違う。
自分なりの折り合いのつけ方
考えた末に、今は「やりがいを感じるポイントを意図的に残す」というやり方をしています。
たとえば、文章の「最初の一行」と「最後の締め」だけは自分で書く。アイデアを出すフェーズは Claude Code に渡さず自分でやる。相手への返信で「ここだけは自分の言葉で書きたい」という部分は、必ず自分で書く。
全部を渡さず、「これは自分がやった」と言える部分を意識的に残す。それだけで、やりがいの感覚はずいぶん変わりました。
答えは、たぶん人によって違う
この問いに、正解はないと思っています。AIに仕事を渡すことへの感覚は、仕事の種類や、その仕事に何を求めているかによって、まったく違う。
「仕事は早く終われば十分」という人にとっては、やりがいの問題はほぼ関係ないかもしれない。「仕事の過程に意味を見出している」という人にとっては、Claude Code との付き合い方を少し工夫した方がいい。
自分がどちらかを知ることが、Claude Code を使いこなす第一歩かもしれないと、最近は思っています。